1995年1月17日。兵庫県南部を襲った阪神・淡路大震災から23年がたった。

当時僕は中学1年生、神戸にいた。今でもあの日のことは鮮明に覚えている。ネットなどの情報はなく、崩れそうな建物、そして混乱のなか、テレビや新聞、ラジオで地震の被害状況、生活情報を毎日確認していた。

あれから23年。さまざまに形を変え、復興した神戸の街には震災の爪痕もなく、元気な姿を取り戻している。それは言うまでもないが、震災で負った傷が人々の絆を築き、お互いに助け合おうという心の芽が根となり、育ったからである。

その一方で、テレビやメディアで取り上げられることも少なくなった。記憶は風化するという事実を突きつけられる現実。「もう昔のこと」なのだと。

でも、これでいいのだろうか。忘れてしまうべきなのだろうか。そうではないし、いろいろ教えられたことも多いはず。そういった思いもあり、今ペンを走らせている。

1月17日。この日を迎えるたびに、僕はこう思うのだ。もしあの日、あの地震で僕が命を落としていたら、僕は今こうして歌っていられなかったかもしれない。僕が今生きているのは、偶然「大きな被害に遭わなかった」だけにすぎないと。

それと同時に、亡くなられた被災者の立場に自分を置くことで、僕は今日まで36年間生きているということの幸運を実感する。(命を失わなかった)幸運を自分が得られたことに、どこか心地よさを感じている。それはある種、サディスティックな感覚に近いのかもしれない。そしてまた、その罪深さに苛まれたりもする。

亡くなった方に対して冥福を祈ることを追悼というが、追悼するという行為によって自分を満足させているだけなのではないか。ふとそう思ったとき、追悼という行為は、これほどまでに曖昧さを帯びているものなのかと痛感するのである。

恐らくそれは、追悼するという行為が、多少なりとも自己愛的な(当事者ではないという)態度が基盤となっていると僕が考えていることに由来する。当事者でない以上、震災について考えるというのも、「1.17」に合わせて追悼するという行為を、ただただ毎年繰り返しているにすぎないのかもしれない、とも思うのだ。

しかし、何も意味がないわけではない。震災の悲惨さ、残酷さ、痛ましさ、今もその恐怖から立ち直れない方々の気持ちを想像し、その痛みや悲しみに思いを馳せること、「感じる」ことが僕にはできる。この「感じる」ことができなくなった、あるいはしなくなったとき、人間は人間でなくなるのではないだろうか。

震災による心の傷、悲しみは日ごとに癒えていくと言い切れたらいいのだが、実際には、現実にあった出来事として感じられなくなっていくことや忘れられる不安などから、日増しに強くなるものでもある。そう考えると、無意識もしくは意識的に忘却してしまうことが、何よりも問題だと僕は思う。

それを思い知らされた出来事がある。

阪神大震災から20年目にあたる2015年に、「“震災の記憶”と“いまを生きる”」をメッセージに掲げた映画『神戸在住』(白羽弥仁監督)が公開された。その公開初日、ヒューマントラストシネマ渋谷に行った日のことである。

なんと公開初日というのに客席はガラガラ。場所が東京ということもあったのかもしれないが、あまりの世間の無関心さに驚きを隠しきれなかった。

さらに衝撃だったのは映画の内容だ。ストーリーは、藤本泉演じる主人公、19歳の桂(かつら)が父親の転勤で東京から神戸へと移り住み、市内にある大学の美術科に進学するところから始まる。

桂は20年前の震災後に生まれた世代。震災があったこと自体、知ったのは越してきてからで、神戸に住む人々との出逢いを通して、その傷の深さを知っていくという物語だ。登場する女子大生も震災後の世代であり、映画に震災の悲惨さはおろか、まず被災者がほぼ登場しない。現代のきれいな神戸の街並みしか映し出されず、桂やその周りの人々にとって、震災の記憶は「聞いた話」なのだ。震災を知らない世代の、のほほんとした姿が描かれていた。

これは、あえて「震災を語らない」ことで、震災の記憶を浮かび上がらせようという試みだ。よみがえった神戸のきれいな街並みの影に隠れている悲惨な過去に、主人公が気づくことによって「震災を考える」というメッセージを発している。

それは裏返すと、いかに阪神大震災後の世代が震災を知らないか、という事実を象徴している。少々強い言葉だが、「風化の罪」とでもいったらいいだろうか。「震災の記憶」の扱い方が示唆に富んでいて、いかに語り継がれなかったかということを大きな問題として捉えさせてくれる。

なにせ客席はガラガラ。神戸と東京では距離があるとはいえ、震災と無縁だったどころか、2011年の東日本大震災(3.11)はわずか4年前だ。「3.11」で僕たちが感じた絆は、いったいなんだったのか。映画『神戸在住』公開初日のこの日、「震災」自体への関心の薄さを目にして、「風化」の罪を僕は改めて思い知らされた。

自明ではあるが、震災を知らない世代が成人となっている。つまり、もう日本の1/5以上の人が阪神大震災を知らないわけだが、それが現実だ。

しかし、だからといって震災を歴史の1ページで終わらせてはいけないし、震災を知らないなら知らないで良しとしていいものでもない。僕たち大人は若者たちに震災のことを語り継げる。風化させないためにできることがあると思う。

今、僕は震災を知らない世代と仕事をする立場にもなった。僕はできる限り1995年のあのとき、神戸に何が起こったかを伝えるようにしている。震災があった事実を、体験を、記憶を風化させないこと。それは、何があったかを知ることでそこに心を寄せ、当事者の思いを「感じとる」ことから始まると思うからだ。

現代社会はあまりにもスピードが速く、情報は溢れ押し寄せる。膨大な情報に追い立てられ記憶は定着しにくく、忘却の間隔もいっそう短くなっているように感じられる。震災はあったが復興したからもう終わったこと、ではないはずだ。その地域が表面上きれいに立て直され、元の生活が戻ったように見えても、人々の心の痛みは消えていないし、消してしまえばいいものでもないだろう。では、僕らに何ができるだろう。

僕は、痛みとともに人が、街が歩み続けるには、人々が無理なく寄り添い合えるような関係を築いていくことが大切だと思っている。寄り添うには相手を思いやる心、感じる力が欠かせない。しかし、もし何があったか全く知らなければ、思いやる心も感じる力も芽吹かないだろう。だからこそ、震災の記憶を風化させてはいけないのだ。

すでに、福島の問題にも風化の影が見え始めている。そして熊本でも、今なお不自由な生活を強いられておられる方々がいる。震災について考えることは、これら福島や熊本の問題、さらには現代社会が抱えるさまざまな問題に向き合うことにも繋がるのではないだろうか。

阪神大震災から23年目の今日、神戸から離れているからこそ、1.17についていっそう考えたい。この思いの発信は、震災を風化させないための一歩を踏み出すという僕の宣言だ。

2018.1.17  川元清史


( 撮影:川元清史 )

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