僕は2016年より、歌詞が英語のみのオリジナル曲を世界配信で発表するという新たな挑戦をしています。ご存じのように、2015年の「Affection」までは日本語と英語を取り混ぜた曲を発表していました。
恐らく、リスナーの皆さまの中には「今、川元清史が英語で歌っているのはなぜなのか」という疑問を抱いている方もいるだろうと思いますが、それは、ラブ・ソングを国内だけではなく世界へ届けたい。そして、世界共通語である英語を通じて、歌詞(うた)の文脈を理解し、感じてもらいたいという純粋な気持ちからきています。
ここ数年、僕の中には、コンサートや制作活動を行う「東京ローカルなバラードシンガー」と、「国際社会における自分の存在を意識しながら、世界に向けてラブ・ソングを歌うシンガー」という、2人の自分がいることを感じてきました。そして、より明確に存在が大きくなっていったのが、後者でした。
長い音楽活動を続ける中で、なぜ今そこに行きついたのかといえば、一つには、音楽の聴かれ方が変わってきたという事情があります。2010年代に入り、インターネットやスマートフォンの普及によって社会のグローバル化はますます進み、音楽も従来とは違った形で世界中の人々に共有されるようになりました。また、もう一つには、僕が影響を受けた音楽がアメリカのブラックコンテンポラリーだったことも、英語で歌っていきたいという気持ちを強くしました。
ストリーミングサービスでの世界配信を開始してから3年。定額料金で音楽が聴き放題になるストリーミングに国境はなく、僕の歌は世界へ発信され続けました。そして、配信3年目にしてSpotify承認アーティストへと昇格。2018年の1年間で2000ストリーミング以上を更新するなど、ようやく皆さんに胸を張って報告できる結果を残すことができました。
2018年を振り返るにあたり、本ブログでは、このストリーミング配信での躍進に至るまでのデータ(記録)を見つめながら、この1年の成果や飛躍を皆さまに報告し、世界配信するうえでの心構え、これからの抱負などをお伝えしていきたいと思います。
まずは、今年1年で2000というストリーミング数を獲得するまでの軌跡を、信頼できるデータをもとに見ていきます。
図1は、僕の歌が世界でどれだけストリーミングされたかをアグリゲーターが集計し、示したものです。
【図1】
このグラフを見ても分かるとおり、2017年の秋から2018年の2月くらいまでは、月間で平均60ストリーミングが再生されればいいところという状態でした。しかし、2018年の3月から急にストリーミング数が上昇し始めます。月間60程度だったストリーミング数が、急激に倍以上に飛び上がるのです。
4月には、「Tonight, I Celebrate My Love」のカバー曲をリリースしていますから、当時は、その影響による一時的な上昇と認識していました。ところが、その後の動きが非常に面白いのです。
【図2】
図2が示すように、2018年4月以降は月間200ストリーミング以上をそのままキープしながら、8月には337ストリーミングを記録します。
もっと長いスパンで見ると、
【図3】
図3は2017年2月~2018年10月までのストリーミング数ですが、2017年はゼロ更新の日々に苛まれる時期があったことも見てとれます。ストリーミング数は、2018年後半から伸び続けているというよりも、その頃から世界配信が急激に現実化していったということが、このグラフからご覧いただけるかと思います。
先ほども述べたように、2018年の夏に僕はSpotify承認アーティストに昇格しました。月間リスナー120名を記録、プロフィールページも作成されます。これらの事実に驚きながら、僕は、自分の歌が世界で聴かれているという実感を初めて持つことになります。
世界配信といっても、いったいどこの国の人々がこのように急激にストリーミング数を上昇させたのか……? 月間リスナーから集計した国別データがあります(図4)(図5)。
【図4】
【図5】
国別ストリーミング数を見ると断トツはアメリカで、日本よりアメリカのリスナーのほうが多いという結果です。これを見る限り、ストリーミング数の急上昇は明らかにアメリカのリスナーが牽引していたと分かります。
先日、Spotifyアーティストページより、2018年の年間ストリーミング集計結果が発表されました(図6)。
【図6】
ストリーミング数2000、リスナー総数621名、再生時間8K。41カ国にわたって、僕の歌はSpotifyでそれだけシェアされたことを示しています。
まだ数は少ないながら、僕の楽曲がこの1年で世界の方々に購入され、SNSで感想を頂けるという経験もできました。また、取り立てて言うほどのことでもないのですが、僕はこの世界に向けての楽曲配信活動を、誰からの援助も受けず、スポンサーに頼ることもなく、自己資産で行っています。言ってみれば、純粋に音楽の力だけでリスナーを獲得したといっていいのではないかと思います。
この流れを汲んで、この1年、感じたことがあります。
世界では、さまざまな人々がさまざまな場所で、多種多様なものを求めながら生きています。しかし、僕の生き方とはまったく違う人とでも、音楽を介することで共感が生まれる瞬間が、確かにあった。それがはっきりと感じられたことは大きな喜びをもたらしてくれました。そして、いっそう頑張ろうと進み続ける勇気にもなりました。
冒頭で、僕はこれまで「国際社会における自分の存在」というものを問うてきたと述べましたが、その問いに対応した形で結果がついてきたことに加え、僕のシンガーとしてのアイデンティティー、そして新たなスタートラインを、身をもって体得できた1年だったと言っていいのではないかと思います。
世界の音楽業界の主流が、すでにストリーミングとなっていることは周知の事実ですが、日本ではようやく広く知られるようにはなったものの、実際の売上高としてはまだ全体の20%程度に過ぎません(IFPI「GLOBAL MUSIC REPORT 2017」 )。
しかし、デジタルミュージックだけで見れば、定額配信のストリーミングは伸び続けていて、2017年にはダウンロードを抜きました(日本レコード協会「音楽メディアユーザー実態調査 2017年度)。これから本格的に、ダウンロードからストリーミングへと移行していくのは明らかですし、音楽配信がより拡大していくのも時間の問題だろうと考えています。
つまりそれは、アーティスト自らがリスナーを生み出し、新たなコミュニケーションを作り、アーキテクチャーする時代、音楽を世に届けていくための仕組みをアーティスト自身が構築していく時代に突入しているということを表しています。
では、僕自身アーティストとしてどう在りたいのか。世界配信を通して、どのようなコミュニケーションを作り、構築していきたいのか。
それに対する明確な答えは、今はまだ言及できません。ただ、これまで述べてきたように、これだけ僕の歌が世界で聴かれ、僕が歌に込めたものを受け取ってもらえたことは事実であって、裏を返せば、人々に「共感力」というものがなければ、アジアの一アーティストである僕の歌が聴かれることはなかっただろうと思うのです。
ここで言う「共感力」とはいったい何なのか。それは、感じる力・吸収する力のことです。
僕が、自分の歌を世界配信していこうと決めたとき、まず実践したのは、感じる力・吸収する力、つまり「共感力」を養い、高めることでした。
まず、2014年頃から本格的な英語の発音レッスンを始めました。英語詞に乗せた僕の想いをまっすぐ受け取ってもらうために、発音は重要だと考えたからです。そして、時間を作ってはアメリカの歴史や文化を学び、映画を観るなどして吸収するようにしてきました。2018年の春にはニューヨークへ行き、歌詞の文脈を現地で感じるという経験もしてきました。
ある人はこれを「世界配信するための実践的努力」と評してくれましたが、僕が最初に取り組みたかったのは、シンプルに感じること、「共感力」を高めること。僕の歌を世界配信していくための態勢づくりを、そこから始めたといってもいいでしょう。
僕がそこまでして「共感力」を重要と考えたのはなぜか。それは、アーティストとしてどういう存在でありたいか、「国際社会における自分の存在」を意識することが、国境を越えて作品(歌)を世界発信していくうえでカギとなる、そう感じたからです。これは、日本国内だけに向けて活動していたときには持ち得なかった感覚で、ことさら世界を意識していなければ、見出せなかったかもしれません。
「共感力」がなぜ重要なのか、別の確度から見てみることにしましょう。
まず、グローバル社会時代と言われている現代ですが、果たして何もかもがグローバル(=全世界的)な方向へと進んでいるのかを考えてみてください。かつては、誰もが共感できる・共有したいと思える音楽やストーリーが、確実に存在していました。人が良いと思える・好ましいと思える感覚に、あまり大きな差はなかったということかもしれません。
今はどうでしょう。好きなものがあっても、ごく近しい人や自分の属するコミュニティー内で理解してもらえればいい、という考えは珍しくありません。もっと言えば、他人に迷惑をかけさえしなければ、それぞれが好きにすればいいといったような風潮も感じられます。
グローバル化は社会にとって前進ですが、一方で、人々に過多ともいえる膨大な情報をもたらしました。それは音楽も同じことで、あらゆる音楽に触れられるようになった反面、作品に一つ一つ向き合っていられない状況を生み出すことにもつながってしまった。1つの歌に込められている想いを読み取り、吸収しようとする力=「共感力」は、意識的に使っていかなければ徐々に失われていきます。そして、「共感力」の欠如は、個人をバラバラに孤立させていくのです。
そんな時代にいて、僕はいったい何ができるだろう。自分の歌は、この現代において世界に必要とされるのだろうか。そもそも、「共感力」はもう不要になってしまったのだろうか。
2010年代を通して、僕はそんなことを考えてきたように思います。
加えて、ここ数年は特にIT技術が進み、SNSが生活の一部に組み込まれ、半機械化されたような日常に従えっていれば特に不自由なく、欲求するまま、消費しながら暮らしていける社会があります。
そのような社会は、人間の本質や、何かに込められた人の思いを、とても見えにくくします。見えにくいからといって見ようすることをやめ、なんとなく理解したつもりで不問に処されていることは現代の由々しき問題であり、それは、健康的な国際社会に生きる人の態度だと、僕は決して思えないのです。
僕はこう考えます。「共感力」の喪失は孤立をまねき、個人がバラバラになればなるほど、自分を社会の、世界の一員として捉えられなくなります。そうして、社会・世界に対して働きかけていこうとする力を手放してしまえば、「共感力」はさらに薄れていくのではないかと。
もちろん、社会や世界に興味がなく、自分の世界の中だけで満足する人生でいいのであれば、問題はないかもしれません。しかし、僕はそうなりたくはないと強く思っています。
世界のどこかで、僕の歌を聴き、そのラブソングの世界に共感したリスナーが、僕の歌から普遍的な何かを受け取ってその人の人生の一部として取り込んでいく。この1年、世界配信をした結果から、僕にはそんな光景が見えるのです。
この時代、とりわけアーティストは進化しなければなりません。リスナーや応援してくれるファンを通じて、今まで見えなかったものが見えるようになり、これまでは想像できなかったことに思い至る。アーティストの成長とは、それを繰り返すことでなされるものだろうと思います。少なくとも、僕は2018年の世界配信を通じて、それまで見えなかったものが見えるようになり、これまで想像もしなかったこと、気付かなかったことを数多く体験しました。
新しい年を目前にして本年を振り返るにあたり、世界配信で結果を残すための実践的な取り組みや活動内容についてのレポートを期待していた方もいるかもしれません。しかし、それはまた別の機会にお伝えすることとして、今回筆を執ったのは、これまで語ってこなかった、世界配信するうえでの信念や姿勢を語っておきたいと思ったからです。
2018年を締めくくり、2019年以降も世界配信していくうえで、結果を出せた今年の躍動感やその気持ちを忘れないためにも、ここに記し、皆さまにお伝えしておきたかった。
音楽は国境を越える。けっして僕の歌は無力ではない。そして、世界の誰かのためになると信じ、そのための一歩として、僕は今年の結果を抱きしめたいと思います。
2019年も新曲はリリースしていきます。そして、また大きく前進する1年にしたいと強く決意しています。どうぞ、その歩みにお付き合いいただき、これからも末永く応援いただけますよう、よろしくお願いいたします。
2018.12.30 川元清史